【私が欲しかった安心の正体】
彼の目。
廊下で見かけた後ろ姿。
ふと浮かぶ、作り笑いのような悲しい微笑み。
それを見るたびに、胸をぎゅっと掴まれたような感覚を覚えた。
ある日の朝、私は大学病院の別の科を受診するため、待合室の廊下で仕事をしながら番号が呼ばれるのを待っていた。
パソコンから目を離し、ふと顔を上げた瞬間、先生が目の前を通っていった。
「あっ……!」
その瞬間、反射的に顔をそむけ、すぐにパソコンの画面へと目線を落とした。
――逃げたのだ。
あんなに近づきたくて、触れたくて仕方がなかった先生が、すぐ目の前を通っているのに。
私は一瞬で、逃げる選択をした。
「先生!おはようございます」
たった一言。
その一言すら、言えなかった。
拒否されたらどうしよう。
迷惑がられたら?
無視されたら?
他の患者さんの目は……?
そんな、起こるはずもないことを次々と思い浮かべてしまい、
声をかけるより、逃げるほうがずっと楽だった。
そのとき、ふと思った。
「ちょっと待って。
これ、先生が私にしていることと、同じじゃない?」
――これが、鏡の法則?
ふっと、苦笑いがこぼれた。
翌日、先生の診察で目を見た瞬間、
私は廊下でのその“気づき”を思い出していた。
彼の目を見ていると、
何かが、すっと降りてきたような感覚があった。
「拒否されたくない。
愛されたい。
捨てられたくない。
自分を押し殺す……」
浮かんできた言葉たち。
――この感情、全部、私だ。
そう。
彼の目から受け取っていたあの悲しみは、
すべて私自身の奥底に蓋をして、閉じ込めて、
ずっと見て見ぬふりをしていた感情だった。
この気づきが、まだ終わりじゃないことを、そのときの私は知らなかった。
